ケニア

 
ケニアのアイコン
  • 1.外務省ホームページ 各国・地域情勢

  • 2.旅行情報(空港、ホテル、換金/TC、治安など)

    ・治安:首都ナイロビは夕方になると出歩くのは危険。かならず車で移動のこと。 2007年末の大統領選を発端にして生じた暴動の影響は、徐々になくなっている。だが銃も出回っているので要注意。

    ・インド、中東経由でナイロビに入るか、ヨーロッパ経由で入るかの二通りが主流である。ガルフ・エアーやエミレーツを使う人が最近は多い。エミレーツは関空発着、ドゥバイで数時間で乗り換えてナイロビまでくる。KLMはアムステルダム,BAはロンドン経由でナイロビまで9時間。ただヨーロッパ経由は一泊しなければならない場合が多い。とくにBA。
  • 3.医療情報

    抗生物質、解熱剤、一通り持参のこと。ときおりコレラも発生する。水には注意。

    ・病院
    ナイロビにいたら、もっともいいとされているのがアガカン病院。最近はナイロビ病院よりもいいとされている。ただし、治療代は高い。大使館にも医務官はいる。

    ・マラリア
    インド洋沿い(コースト地方)では二日熱、三日熱マラリアがあり、内陸、とくにヴィクトリア湖周辺では熱帯熱マラリアが多く、後者は非常に危険。毎回、街の薬局、学振で最新のクスリ情報を得て予防薬、治療薬を入手していくべし。 予防薬にはメファキン(感染地に入る一週間前に一度、その後は週に一度、感染地からでてからも二週続ける)、治療薬にはコテキシンという中国の薬を使うのがこのところの主流。 日本にはほとんどマラリアがないため治療機関も限られている。現地で治療を受けたほうが適切な治療を受けられるとも考えられる。 東京の場合、私は駒込病院の感染症科にかかっている。ただ、マラリアで入院したときもキニーネ治療だった(椎野)。

    ・栄養
    ケニアの典型的な食卓は、ケール(スクマウィキ)のいためもの(ボガとよばれる)、肉のシチュー(カランガ)、トウモロコシの粉でつくった練り粥、ウガリ。ケールはローカルフードでよくでてくるが、これはビタミンが多い。
  • 4.通信環境

    ナイロビにはたくさんのネットカフェがある。ただし、日本語が使えるかどうかは店の端末によっても異なる。自前のPC持参のほうが、LANをつなげてくれるのではやいことが多い。 コーヒーの美味しいJAVA Houseのカフェ内では、ワイヤレスがしかれているところがほとんどである。
  • 5.ビザ、調査許可

    ・観光ビザは、空港についてからとることも可能。ただし、長蛇の列であることが多い。一ヶ月でも三ヶ月でも50米ドルだが、注意しないと3か月のつもりでも1ヶ月と書かれるので注意。

    ・ケニアには日本学術振興会のナイロビ研究連絡センターがあるので非常に研究者にとってはありがたいです。分野をこえて、ケニア全土で調査をする人が必ずナイロビ学振に立ち寄り、出会い、情報を交換し、議論していきます。
    →日本学術振興会ナイロビ連絡センターのサイト http://jspsnairobi.org/

    ・調査許可は日本学術振興会ナイロビ連絡センターをとおしてとるのがよい。学生で長期である場合、学生ビザをナイロビ大学をとおしてとる。人類学の場合、ナイロビ大学の機関であるIAS(Institute of African Studies)が博物館のコンパウンド内にあり、その所長のレターをもらってからイミグレーションに行く。

    <私のばあい> 私が初めてケニアに行ったのは1995年。その頃は、もうすでにあまり許可をとるのは大変ではなくなった頃だったようです。でもレターをカウンターパートの大学機関にもらわねばならないのと、大統領府のオフィスに行くアポイントをとるのが面倒でした。アフリカ・タイムなので約束しても、何度かいないこともありました。やはり、申請したあと、一週間か何週間かしたあと現物をもらいにいくときも、なにかモノをもっていきました。日本からのときは、必ず手土産。大学機関のほうは、秘書さんらにもスカーフなど。先輩たちも、夕飯を接待したり手土産をもって行っていたようです。 学生ビザについては、明らかに「お礼」が必要でした。学生ビザは、一度とると再入国許可もとれるので、それは楽。ただこれは5年も前の話なので、マシになっていると思います、いろいろ(椎野)。
  • 6.カウンターパート、来日経験のある研究者

    ケニアにはナイロビ大学をはじめ、地方にもいくつか大学がある。ナイロビ大学、ジョモケニアッタ大学、ケニアッタ大学が主流。ナイロビ大学はナイロビ市内にあり、キャンパスもいくつかあるので専門によって訪ねる場所が異なる。Institute of African Studies(IAS)はミュージアムのコンパウンド内にある。ただ人類学の教官の一部はメインキャンパスにもいる。
  • 7.大学図書館、アーカイブス、本屋

    フォト7-1

    2006年撮影のケニア・アーカイブスの建物。



    ・アーカイブス:ヒルトンホテルの向かい、アンバサダーホテルの隣にある。このあたりは中心部とダウンタウンの境目にあたり、交通量も多く決して治安はよくないので注意。手続きは比較的簡単。パスポートや調査許可証をもっていき、100シルほど払って利用証をつくってもらう。 →入り口で荷物をあずけ、建物のなかに入ると一階には各民族の盾や槍などが展示してある。左手の階段をつかって二階にあがると、閲覧室になる。利用証には番号が書かれるので、利用者ノートに書くようになっている。担当者は2,3人いるので、わからないことがあればいつでも答えてくれる。なれないとファイルの保存のされ方がわからないので、担当者に聞こう。コピーも頼むことができる。月曜から金曜は朝8時半から夕方5時まで、土曜は午前中まであいている。

    ・本屋:プレステージがおすすめ。2008年5月からマネージメントが変わったが、たいした変化はない。専門書もよくおいている。本を郵送したい場合は、頼むと郵送用に包装してくれる。
    テキストブックセンター:本店はユニバーシティウェイの近くにある。サリットセンターというウエストランドにあるショッピングモールにもある。 ナイロビ大学のメインキャンパス内にも本屋はある。

    ・政府刊行物:Kenya Government PrinterはGPOの並びの、ウフルハイウェイにぶつかるランドアバウトの近くにある。
  • 8.機材・資料の持ち出し、持ち込み

    書籍 郵送するなら、GPOへ。ふつうの郵便局は扱っていない。GPOはNyayo Houseの隣の大きなビルか、鉄道駅の近くに。船便がいちばん安いが、日本につくのは早くて3ヶ月、遅いと半年はかかる。EMSよりもふつうのエアメイルもあり。重いものならDHLなどのほうが逆に安い場合もある。
  • 9.調査グッズの現地調達

    ナイロビでは、たいていの文具類はそろう。
  • 10.日本人研究者情報/これまでの調査、科研

    (自然環境、歴史、政治、経済、宗教、文化など各分野で活躍する研究者など)

    ・ケニアにおける日本人研究者
    <重鎮>石田英実(滋賀県立大学)長島信弘(テソ/中部大学)松園万亀雄(グシイ/国立民族学博物館)中林伸浩(イスハ/桐蔭横浜大学)小馬徹(キプシギス/神奈川大学)北村光二(トゥルカナ/岡山大学)佐藤俊(レンディーレ/筑波大学)
    <人類学(生態・形質・先史・文化‐社会人類学)>浜本満(ドゥルマ/九州大学)小田亮(クリア/成城大学)曽我亨(ガブラ/弘前大学)太田至(トゥルカナ/京都大学)作道信介(トゥルカナ/弘前大学)河合香吏(チャムス・トゥルカナ/東京外国語大学AA研)湖中真哉(サンブル/静岡県立大学)菊地滋夫(カウマ/明星大学)国松 中務 中野(大阪大学)
    <若手>清水辻川 寛(東北大学)孫 (レンディーレ/京都大学)中村香子(サンブル/京都大学)坂井紀久子(カンバ/京都大学)内藤 (アルアール/京都大学)石田慎一郎(グシイ・エンブ/大阪大学)石井洋子(キクユ/聖心女子大学)椎野若菜(ルオ/東京外国語大学AA研)古川(一橋大学)
    <昆虫学>足達太郎(東京農業大学)
    <植物学>
    <考古学>
    <地理学>水野 (ケニア山/京都大学)桂田  (ヴィクトリア湖付近/名古屋大学)

    ★東アフリカにおける日本人による主な学術調査のこれまで★
    H19年度海外学術調査総括班フォーラム連続ワークショップ講演報告 http://www.aa.tufs.ac.jp/~gisr/workshop/WS2007_shiino.pdf

    ・広い意味での日本の人類学はその初期、アフリカ研究者によってリードされてきたと言えるのではないかと、少なくとも旧文部省による資金援助の歴史をみると考えられる。

    ・旧文部省が、資金援助をはじめた1963年以降、助成を始めた初期に、どのようなところにアフリカ研究の拠点が築かれたのかをみてみると、大きく三つの流れがある。1961年から始まった京都大学理学部の今西錦司(人類学)が中心に始まった調査隊、1968年から松沢勲(地質学)や諏訪兼位(地質学・岩石学)によって名古屋大学理学部にて始まった調査隊、1971年より東京都立大学理学部の戸谷洋(自然地理学)や門村浩(自然地理学)によって始まった調査隊である。ごく初期の1970年代に熊本大学体質医学研究所の沢田芳男(体質医学)を初めとする研究もあった。いまもなお流れをくんでいるのは、先の三者である。なかでも、日本人によるアフリカ研究は今西たちの調査隊が初めて着手したのであった。

    ・今西錦司が梅棹忠夫との編著『アフリカ社会の研究――京都大学アフリカ学術調査隊報告』の「アフリカ研究序説」において、アフリカで研究を始めたいきさつを書いている[1966:21-22]。「われわれをアフリカに押しやった意欲は、だいたいつぎのような、ふた通りの、ちがった火元から、燃え上がっている。」と述べたうえで、戦時中、今西はボルネオの学術調査を企てたことがあり、そのひとつの目的がオランウータンの野外調査だったと述べている。というのも文献研究をした結果、類人猿のなかでゴリラ、チンパンジー、テナガザルの研究はなされていたが、オランウータンはまだ誰も着手していないことが分かっていたからだった。ところが時代は戦時下。ボルネオ調査は実現せず、だがなんとかモンゴルにたどり着き、モンゴル人、すなわち遊牧民の調査を始めることとなる。蒙古草原の類型づけ、生産量などを調べ、「生産量生態学のはしり」を着手した。そのモンゴル調査の最中に終戦になり、引き上げざるをえない状況になって、次にアタマに浮かんだのがアフリカだったというのだ。というのも、アフリカには、蒙古ににた遊牧民の世界があるに違いないという理由からだった。そしてやっと1958年に入り、アフリカ行きが実現することとなる。

    ・当初の目的は、ボルネオ計画の延長で、類人猿調査を目的としていた。伊谷純一郎、今西錦司らは1958、1959、1960年と野生ゴリラ調査を行なう。

    当時は文部省科学研究費補助金による海外学術調査の派遣が本格化する以前であり、それらの調査は財団法人日本モンキーセンターによるファンドで実施されていた。つづいて1961年、文部省によって調査研究の予算が認められ、「京都大学アフリカ類人猿学術調査委員会」が発足し今西らは当時のタンガニイカ(現在のタンザニア)で活動を開始した。

    ・調査隊の公式名称は「類人猿調査隊」を名乗っていたが、「類人猿」班と「人類班」というふたつの班が設けられ、類人猿の研究のほかに、人類の、いまや「」つきの「未開社会」の研究をとりあげることとなった。当時の調査の目的として、野生の類人猿の社会生活をあきらかにするとともに、現存するアフリカ社会、とくに狩猟採集民の社会生活を研究して両者のつながりをみとめようとする、人類社会進化のあとをあきらかにしようという意図があったという。

    ・梅棹によると、つまりは「はじめはあきらかに霊長類学な関心からでてきた研究だったが、やがて研究者たちの関心もひろがって、霊長類学、自然人類学、動物学、植物学、陸水生物学、古生物学、地学、医学、農学などの自然科学系諸科学とともに、社会人類学、文化人類学、社会学、人文地理学などの人文地理学などの人文・社会科学系の諸分野をふくんで、一大総合研究の観を呈するようにいたっ」た。また「日本の学術陣の海外における調査活動としては、規模において、南極観測隊につぐものと評せられている」と当時のアフリカにおける日本人による調査隊の位置づけられ方について述べている[梅棹  1966:27]。

    ・こうした初期のアフリカ研究の元手であった今西・伊谷隊の流れをくむ文系科研にかんしていえば、人文地理学、言語学、人類学の複合性があったと指摘できよう。

    ・やがて一橋大学に社会人類学のコースを設置した長島信弘が今西・伊谷隊の流れとは別に、並行して1977年度から社会人類学の科研を組織する。長島は『日本の民族学1964-1983』(1986年、弘文堂)のなかで、日本における東アフリカの20年の研究の傾向を(a)関東地区を中心とした社会-文化人類学者、(b)京大系生態人類学者、(c)東外大AA研の地域研究と大きく三つに分類した[長島・福井 1986: 264]。たしかに大きな流れとしてはうなずけるが、たとえば長島の社会人類学の科研のメンバーのひとりであった松園と今西・伊谷隊の流れを組む佐藤俊が 1994年度からともに科研を組織するという展開をみせていることからもわかるように、3つに分類される研究者間の共同研究がなかったわけではない。

    科研による調査隊の組織の歴史については、(昭和38~53年度)は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所FSC(フィールドサイエンス研究企画センター)による国際学術研究調査関係研究者データベース、近年のものについては国立情報学研究所による科学研究費補助金の成果のデータベースを参考のこと。

    <参考サイト>
    国際学術研究調査関係研究者データベースhttp://www.aa.tufs.ac.jp/~gisr/drosrp.html
    国立情報学研究所 科学研究費補助金データベース http://seika.nii.ac.jp/[2]

    <参考文献>
    今西錦司・梅棹忠夫編  1966 『アフリカ社会の研究――京都大学アフリカ学術調査隊報告』、西村書店。 海外学術調査に関する総合調査研究班  1980 『海外学術調査関係研究者名簿(昭和38~53年度)』 真島一郎・河合香吏  2006 「日本アフリカ学会第42回学術大会記念シンポジウム報告:変貌するアフリカ・変貌する諸学との対話――生態人類学、47年後の意味」『アフリカ研究』68:75-92. 富川盛道編  1980 『アフリカ大サバンナ学術調査プロジェクト報告 アフリカ社会の形成と展開――地域・都市・言語』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所。 長島信弘・福井勝義  1986「2 東アフリカ」日本民族学会『日本の民族学1964-1983』、pp.264-273, 弘文堂。

    【自然環境】 国土の面積は日本の約1.5倍。リフトバレーとよばれる大地溝帯が国土を縦断し、その谷底には数々の湖がある。北部のトゥルカナ湖、アフリカ大陸で最も大きいヴィクトリア湖の東岸部はケニアの西部に位置する。東側はインド洋に面しており、海のつながりで歴史的にもアラブとのかかわりが強い。
    大地溝帯(リフトバレー)が縦に走り、その谷間にはトゥルカナ湖、バリンゴ湖、ヴィクトリア湖、ナクル湖、ナイヴァシャ湖といくつもある。モンバサからキスムまでの鉄道に乗ると、サバンナの景色から大地溝帯の谷に囲まれた景色まで堪能できる。
    地理学の水野さん(京都大学)土地の侵食などについては桂田さん(名古屋大学)

    【歴史的背景】 19世紀末より、1963年に独立までイギリスの植民地だった。独立の父はキクユ人のジョモ・ケニアッタ。植民地時代の名残は、いまはブルックボンドがもつティープランテーションが広がる景色、デルモンテが経営するパイナップル畑などの風景にもみられるし、土地の貸借にかんしてはいまだ問題は続々とでてくる。 ケニアッタのあとはモイが大統領職に長年居座る時代が続き賄賂政治で悪名高くなり、歳も老いて2001年からキクユ人のキバキに政権をゆずることになった。2007年末の選挙では、同じ民族の閣僚配置など、利権からむ署にはキクユを配属させることを好むキバキにたいし、反発を抱くルオを中心とする反勢力が暴動への引き金をひくことになった。ルオ対キクユという構図は、独立以降の政治のあり方からずっと現代にいたるまで続いている。
     ケニアッタはイギリス留学の経験があり、社会人類学をまなび、『ケニア山のふもと』という民族誌も書いている。序に近代人類学の祖ともいうべきマリノフスキーが寄稿している。
    ・歴史については、宮本・松田素二編の『新書 アフリカの歴史』講談社、がわかりやすくてよい。
    ・女性の歴史については、富永智津子さんの仕事が大きい。

    【政治】
    ・地方行政システム
    province 州 district 県 division 郡 sub-division 亜郡 village 村
    ・2007年12月27日の大統領選挙の結果に不満をもった人びとによる暴動が全国に広まり、一時国内はマヒ状態となった。
    ・津田みわさん(アジ研)がケニア政治にくわしい。
    ・人口について:国勢調査によると1989 民族別に人口をとり、記載されているのはこの年まで。トライバリズムを促進する可能性、いうまでもなく政治的な影響が大きいからだと考えられる。

    【経済】 東アフリカのなかではもっとも資本主義経済が浸透しているといってよい。日本の企業も多く支所をもっている。スーパーマーケットは「ウチュミ」、「ナクマット」がナイロビのいたるところにある。近年、大型のショッピングモールも次々とできている。南アフリカ系の店が衣料品、食品店ともに急増している。 換金は米ドルのキャッシュがよい。TCは換金のレートがわるく、またフォレックス・ビューローの場合は受け付けないところも多い。

    【宗教】 ケニアはキリスト教国であるが、宗派はさまざま。カトリックのほかはプロテスタントではSDA、アングリカン、さらにROHOなどアフリカ独立教会は日に日にその数は多くなっている。把握するのは難しい。独立教会の活動が顕著なのはケニア西部で、ムスリムが多いのはインド洋沿いのコースト地域である。
    ・ケニアのキリスト教にかんしては、中林伸浩さん(桐蔭横浜大学)がくわしい。
  • 11.そのほか、各地域情報など

    【地域情報】 首都ナイロビは夕方になると出歩くのは危険。かならず車で移動のこと。 2007年末の大統領選を発端にして生じた暴動の影響は、徐々になくなっている。だが銃も出回っているので要注意。 日本大使館はアッパーヒルとよばれる地区にある。移動したばかりで立派な要塞のなかにある。フィールドワーカーがでかける田舎のほうの情報は、大使館はほとんどもっていないと考えたほうがよい。 --椎野若菜 2009年1月2日 (金) 11:28 (UTC)

最新のコメント

コメントの投稿は、メンバー限定です(今すぐログイン)。